disposition
梅雨空。先日送られてきた柳澤田実編『ディスポジション』現代企画社2008のいくつかの論考を読んだ。なかなか興味深い話が載っている。人間は主体的に環境を認識するという近代的(デカルト的)な考え方に対して、むしろ人間は環境の要素の布置(disposition)から多くの影響を受けながらその影響要素の合計値として環境をむしろ受動的に認識するというようなことが書かれている。まあその例としてギブソンが出ていたりする。まあ人間と言うのはパチンコ玉のようなものであり釘の布置の中である傾向性を獲得して大当たりしやすい状態になったりスカになったりするというわけである。
午後原広司の講演会を聞きに国士舘大学に行った。宇野求さにお会いした。そうか宇野さんは原研である。原さんの話しっぷりはわざとかどうか知らないがdiscreteしていた。建築においていかに数学が不可欠かという話しをされていた。最初のうちはその真意を計りかねたのだが、最後に話されたことが数学の必要性を納得させるものだった。ちょっと説明が難しいのだが、数学上のある概念はものの軌跡の無限の可能性を保証するというようなことだった(ように勝手に解釈した)。原さんはこう言う概念がこれからの計画学の基礎になるだろうという。そうかもしれない。不確かなことを確かに語るためにはやはり数学が大きな役割を果たすのかもしれない。というような話しを聞き、朝読んだdispositionなる概念を思い起こした。dispositionはまさに建築的な概念である。しかしこうした行動主義的概念は間違って使うとひどく時代遅れになってしまう。つまり建築とはまさにものの布置でありその布置で人の行動や心理にある傾向性をあたえる作業なのだが、原さんが言うように、建築家の布置など使う側はいとも簡単にのりこえていってしまう。彼等の動きは無限の可能性を持ち、想定外なのである。かといってそれでは我々の布置の作業はまったく無意味かと言えばそうでもない。それは確率の問題なのかもしれない。釘師という仕事が意味を持つ程度に建築家の布置は意味を持っているのだろう。
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