大学で
午前中修了ゼミ。最近このゼミに興味深く没頭できる。去年までは工学的な基準が先にたち無事修了させることで頭が一杯だった。今年はそれを少し忘れることにした。まあ諦観だろうか、いや少し信念を持って工学部的でない基盤をも認めようと考えることにした。言い換えると、建築作品を作る場合に美学的思考の蓄積と分析をもとに作品を作るフィールドがあってもよいと考えるようになった。工学部的基準を少々切り崩すことに挑んでいる。そしてこの割り切りと、新ジャンルが、気持ちを楽にさせ、そのジャンルで語りあうことに意義と意味を感じている。しかし正直言えばこれでどこに着地するのか不安もないわけではない。
昼にキャンパス計画を手伝ってくれた春原さんが来研。昼食をとりながら近況を聞く。最近ご結婚をされたが、仕事は続けた方がよいとアドバイス。
午後三年生の製図。形はいろいろできている。しかし、スケールや色や材料など、とにかく作る術の重要性を言い過ぎたせいか、今度は着目点がありきたりになってきた。子供と言えば、○○○と、三流育児本に書いてあるようなありきたりの定説を説明されてもつまらない。子供育てたことないのだからしょうがないのだろうか?それなら幼稚園にでも行って一日観察してくれば?
夕食後、先日読み始めた『ファッションと身体』読み続ける。翻訳がいいのか原文がシンプルなのか、久しぶりに読みやすい翻訳本である。ところで読む度にどこかしら、ファッションと建築の共通性を感ずる部分を見つける。例えば今日はこんな件に出会う。「十八世紀中葉までは、外見は自分を表現するものとはみなされることなく、むしろ『自分とは隔離された』演出であるとみなされていた。(・・・)しかしロマン主義が力を持つにれて、偽装が攻撃され、『自然』で『偽装していない』人格が賞賛されるようになり、衣服や外見はその人の内面性と結びついているべきであるという感覚が生まれてきた。こうして近代的個人は(・・・)外見によって判断される存在であることを意識するようになる」。これはモダニズム建築において内部の機能が外観に発露する状態をよしとしたことと見事に対応している。
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