保守を思う
いろいろと用事が会って都内を駆け巡っていた。師走である。昼間事務所によると、年末のレイアウト変更の際のダンボール詰めは120箱になるとのこと。まあそうだろうなあ。大変そうだ。夜帰宅して昨日の佐伯さんの『自由と民主主義をもうやめる』を読み終えた。保守という概念がアメリカではヨーロッパのそれからほぼ180度転回したことを再確認する。そりゃそうだ。ヨーロッパがいやになって新大陸に行ったのがアメリカ人。だから彼らの保守はヨーロッパにとっては革新だ。そして著者はこのアメリカ流保守ではなくヨーロッパ流保守を守るべくこんなタイトルの本を書いたわけだ。しかしどうも伝統論者の愛国の話になると僕はついていけない。なぜ保守主義者と言うのはアプリオリに文化というものを歴史と伝統の上に置くことを疑わないのだろうか?先日の朝日の論説主幹の言葉を思い出す。「君が代斉唱の権利を否定しないが斉唱しない権利も認めるべきだ」。同様に、文化は伝統の上に成立することを否定はしないが、伝統がなくても生まれ得る文化の存在も僕はその可能性を否定しない。だからこその文化の多様性と意外性が生まれるのであろう。保守主義者の文化論は静的で耐えがたい。
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