ジンメルの山岳美学
ニュージーランドに数か月滞在していた友人が帰国し午前中長電話。彼が昨今の世界情勢を見ながら「世界の進歩は止まってしまったのだろうか?」と言うので思わずフランシスフクヤマの『歴史の終わり』を思い出してしまった。対立する思想の弁証法的な展開によって進歩してきた世界は冷戦終結によってその2極構造を失い、もはや進歩の歴史が終わったという話。これからの世界は明確な目標のない時代であり個々の倫理と誠実な気概のみに誘導されるのだと思う。
夕刻のアサマで長野へ。車中桑島秀樹『崇高の美学』講談社選書メチエ2008を読む。ジンメルのアルプスをめぐる山岳美学はとても興味深い。先ずは山を「形式」と「量」、ある時は「テクスチャー」も加えて観察をする。僕の部屋では数年前から「質料」、「形式」に着目した山と建築の観察を試みており、それは独自の見方だろうなんて高をくくっていたがやはりヨーロッパにはこんな論考があるわけだ。さらに、ジンメルによれば「アルプス」は「量」の再現不可能性によって芸術対象にはならないという。そしてそれゆえにそれを崇高と呼びうるのだと。そして先日の山岳シンポジウムで紹介されていたセガンティーニ(Giovanni Segantini 1858-1899)のようなアルプス山岳画家は技術によってアルプスが本来持っている表象不可能性を回避していると言うのである。http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ec/Giovanni_Segantini_004.jpg&imgrefurl=http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Giovanni_Segantini_004.jpg%3Fuselang%3Dja&h=1042&w=2048&sz=206&tbnid=QmdQOM9E7h4yBM::&tbnh=76&tbnw=150&prev=/images%3Fq%3DGiovanni%2BSegantini&hl=ja&usg=__RBeMcNQNufZHivXlMTLSJas6Ofs=&sa=X&oi=image_result&resnum=1&ct=image&cd=1。志賀重昂『日本風景論』における日本山岳の崇高性の困難を濱下は指摘したが、アルプスの崇高論を前にするとそれは確かに大人と子供の感がある。
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