国語力
午前中国立新美術館に行って加山又造展と文化庁メディア芸術祭を見たhttp://ofda.jp/column/加山の日本画はしゃれている。顔料にも工夫があり、ものによっては工芸のようでもある。ロビーでサンドイッチを食べながらコラムに感想を書いた。いつも思うがここの食べ物は高い。帰宅後石原千秋『秘伝大学受験の国語力』新潮選書2007を読む。この本は大学受験の参考書ではない。受験国語の変遷を見ながら国語の変化を追うものである。明治35年の一高の入試問題が載っている。これはすごい。全く分からない。ジャンルは3つ、国語解釈、国語文法、漢文解釈。全部で3時間。文章を読ませ、それについて設問があるわけではない。どれもいきなり次の文章を解釈せよとか次の熟語の読み方と意味をかけなどである。国語の問題は今でこそ(僕らの時にすでにそうだったが)答えは問題文章中にあるというのが鉄則だがその昔答えは問題分の中には無かった。いや正確に言えば、問題文章なるものがそもそもなかった。つまりすべては暗記なのである。それは古文であり漢文であり文法であり漢字である。それが徐々に変化する。昭和初期の国立大学の文系、理系の現代国語を見るとこれは読む文章なるものがある。しかし国語の素養と呼ぶべき暗記的知識もないと答えられない。さて、それがマークシートになるとかなり変わる。2003年のセンタ試験が載っていた。第一問は評論文である。やってみた。答えは確実に文章中にある。必要な力は二項対立整理力と、複数概念を束ねて抽象度の高い概念にまとめる力。さて第二問。これは遠藤周作の小説。著者に言わせると小説の読解は評論に比べ訓練を要する。評論は論理性なので数学的であるから答えはルールに従い自動的に出る。一方小説は論理性ではない。そこで言わんとすること(世界観)を推理しなければいけない。しかるに勝手に世界観を作り上げると正解に行きつかない。そこで求められるのは学校的倫理感だという。回答者はこの手の問題を数多くこなし、学校的倫理観の常識を身につけその世界観の中で問題文の言わんとするところを推理せねばならないのである。やってみるとあやしいところがいくつかあった。僕には学校的倫理感が欠如しているからであろうか?いやはやこんな力を問うということに何の意味があるのだろうか?なんだかおかしい。
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