ポスコロ的建築態度とは?
午前中角窓の家に行く。不具合のチェック。打ち放シリコン塗装は今のところかなりきれいである。庭は奥さんが手入れしてどんどん良くなっている。室内もとてもきれい。ありがたいことだ。午後事務所に戻りプロジェクトの打ち合わせ。粘っこく打ち合わせしたいのだが、どうもこちらのanticipationにはまらない、、、、、、。夕方南洋堂へ向かう。建築ラジオなるものの収録。テーマはコールハース。パネラーは柄沢さん、勝也さん、南後さん、僕。コメンテーターは堀井さん。司会は松田さん。南さんと五十嵐さんと山田さんが企画者側として聞いている。こうやって話すと、ああこの人こういう人なのねということがよく分かる。柄沢さんは会ったことはあったがゆっくり話したのは初めて。「コールハースの空間図式」について語る。彼はどんどん建築を現代思想に関連付けていく。そのうち抽象化された概念が一人歩きし建築が見えなくなる。勝也さんのテーマは「批評性からスクリプトへ」。ヨーロッパ時代とアメリカ進出後を比較したタイトルだ。南後さんはよくお会いする。シチュアショニストの専門家なので今回も「シチュアショニストを編集するコールハース」というテーマ。垂直性と水平性というキーワードに司会の松田さんが反応。それを堀井さんが、「コールハースは自分を煙に巻く種をあちこちに蒔いているのであってそれにひっかかってはいけない」と諫める。松田さんはそうは言ってもという感じで徹底してコールハースを抽象化した概念で串刺しにしたいようである。僕は煙もコールハースだからそれを全部引っ剥がす必要はないと思うが、その煙を建築と別次元でまくし立てても無意味だと思う。最後は僕のテーマで「コールハースとスペクタクル」について語り皆の意見を聞く。南後さんには特にコールハースはシチュアショニストから何を得たのかを聞きたかったが、皆が話を自分の領域に引き込むので議論にならない。時間も少ないしまあ仕方ないか。終わって急いで東京駅へ最終のアサマに飛び乗る。車中、本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波新書2005を読む。本当は今日のラジオの前に読もうと思っていたのだが、読む暇がなかった。この本はコロニアリズムの原点として、コロンブスの話から始まる。そして植民地化の原則としての国語の重視、新たな土地で国語を強要するレケリミエント(催告文)という文章、征服者の言葉をしゃべらない人間の罰などが続く。これを読みながら、一昨日の中国での完成検査を思い出した。この仕事では徹頭徹尾中国との文化ギャップを感じてきた。そして振り返ってみれば、われわれは常に日本のやっていることが正しく、日本の水準が上であるということを疑わなかった。しかしこのレキリミエントを読みながら、もしかするとわれわれの行為もこれに近いのかもと頭をかすめた。日本の価値基準(言葉)を前提として、その言葉を話さない中国施工者は我々に服従する意思がないものとして罰せよと思っていたのでは?検査前にcctvの現場状況をユリイカで読み自分の現場と同様であることに勇気づけられ、圧倒的に自分たちの正しさを疑わなかったのでは?ペンキの塗り方にむらがあってもプラスターボードがまっすぐ張れなくてもそれが何か問題だろうか?と疑問を持つことは無かった。契約上の行為だから違法性があるわけではもちろんないもののこれでよかったのだろうか?と少し考えてしまう。しかしでは我々は中国の言葉を語ることがポストコロニアリズム的な建築行為だったのだろうか?コールハースのやっていることは間違いなのだろうか?そこまで言わずとも、そもそも日本や欧米の技術を前提にして設計していることが間違いだったのだろうか?確かにラオスで小学校建設の手伝いをした時は、彼らに何が作れるかから考え始めていたのだから。少々考えるのに時間がかかりそうである。
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