権力と資本からの自由
スカンノ1957―59 マリオ・ジャコメッリ
午前中の早稲田の講義は学生最終発表。倫理性と悪党性がテーマの一つ。多くの学生が悪党性を文字通り倫理の反対の意味で悪いこととして捉えている。そういうつもりで講義した覚えは無いのにと苛立ちながら聞いていた。すると一人だけ、フーコーを参照しながら正確な理解をしてくれた学生がいた。ほっとした。「往々にして世の中の倫理と言われているものが権力あるいは資本と合体して強制力を発揮する。それに対して悪党性が個人の感性の自由を基盤としてこの強制力をずらすものである」ことを示してくれた。そこまでは良かったのだがそれを建築に移すところで上手く行かない。まあ仕方ないか。食事をとって大学脇の本屋で気にとめていた写真家ジャコメッリについての本が目に留まる。辺見庸『私とジャコメッリ』日本放送出版協会2009。事務所に戻り空いた時間に眺める。ジャコメッリの写真はイタリアの田舎の村を舞台にした老人や子供の写真が多い。それらは全てモノクロである。辺見曰くジャコメッリの写真には死が滲み出ている。また生きている間は少なくとも権力からも資本からも自由だった稀有な写真家であったようだ。午前中の学生の発表を思い出した。僕には写真で金を儲けていないプロのカメラマンの親戚がいるが、彼の写真に比べれば、果たしてジャコメッリのそれが権力と資本から自由かどうかは分からないが、少なくともこのレベルの写真家の中では確かにそうなのであろう。また自由であることが理由かどうかわ分からないし、田舎の自然主義と言うようなものとも関係の無いことだが、彼の作品から伝わるものは大きい。思いっきり作為的な一枚の絵のような写真だが(いやだからこそ)伝えようとする強い意志がこちらに乗り移ってくる。
んー少しずれてます。