鏡の否定
午前中学科会議。大した議題はない割には結構時間がかかる。もう少しさっさと議論できればと思うのだが。午後は修士2年のゼミ。後期になれば少しは、こう、ギアが高速にはいるかなと思っているのだが、のんびりしている。まあ自分の子供を見ていても思うのだが、とにかくのんびりしている。これは現代っ子のいいところでもあるのだろうか?神経質になって病的になるよりいいだろうと思って放っているのだが、、、、夕方M1と面接。就職や論文について方針を聞く。時間がたつのはあっという間。気がつくとM2になっているだろうからさっさと修論をスタートするようにアドバイス。
夕食後読みかけのローティを読むための参考書として読み始めた大賀祐樹『リチャード・ローティ――リベラル・アイロニストの思想1931-2007』藤原書店2009を読む。その中でローティの哲学史観における3つの転回が興味深い。一つはデカルトにおける存在論から、認識論への「認識論的転回」。二つ目は20世紀前半英米圏での言語哲学登場における「言論的転回」。3つ目は知識が相対化する中での「解釈学的転回」である。そしてその3つの転回を通してローティが到着するところは哲学が本来目指していた普遍、真理、存在といったものを映し出す人間の内面の鏡のようなものの否定である。そこにローティなりのプラグマティズムがある。そして重要なのはそうした一見ポストモダニスト的でありながらポストモダニストと異なる彼の特徴である。それは彼が厭世的なシニシズムに陥ることなくそこから建設的な参加、合意、希望へと向かう筋道を示している点である。そしてそこに示されるのは自文化中心主義という概念。ちょっと聞くと排他的に響くこの言葉だが、これは様々な価値観の並置を外側から傍観者的に眺めるのではなく、リアルに試行していく上で避けられない解釈の立脚点としての意味を持っている。現代の思想家のなかで彼の考えには比較的頷くところが多い。自分がおぼろげに思っていること:知識は相対的だとか、議論のスタートは現実にしかないとか、それでいて世の中を良くすることは可能だとか、こんな気持ちをローティは代弁してくれいているような気がする。
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