屈辱
午前中二つの打ち合わせ。図書館をどうするか問題と駅の周りをどうするか問題。このお金が無いご時世にどちらも厳しい話ではある。学生と昼食をとり午後一のアサマで東京へ。『読んでいない本について堂々と語る方法』を読み終える。痛快な本であった。その中に面白いゲームの話が記されていた。そのゲームの名前は「屈辱」。数名が集まり順番に自分が読んだことのない本の書名を宣言し、自分以外でそれを読んだことのある人間の数だけ得点できるというゲームである。このゲームに勝つためには人が読んだことのありそうで自分が読んだことのない本を探さなければならない。例えば建築デザインをやっている人なら、バンハムや、ギーディオンのようなモダニズムの古典を「読んでいません」と屈辱的に宣言するようなものである。このゲームが面白いのは本を読むことが至上の価値であるような空間においてのみである。そこで今度学生の間でやらせてみようかとも思うのだが、誰も屈辱を感じなかったらどうしようかという不安もある。こんな面白可笑しい話ばかり延々と続く本書はとんでもなくいい加減な本だと思われそうだが、そうでもない。こうしたとんでも話は終章へ向けた一つのレトリックに過ぎない。結論は批評とはいかなるものかというところにある。批評とは対象について書かれる説明文ではなく、それを契機とした創作であるべきと著者は言う。そう言われるとまったくそうだと言わざるを得ないし、世の中の名批評とはそういうものであろうとも思う。そして認識を新たにするとそれら名批評の作者は批評対象を真剣に読んでいるのかどうか怪しい気持ちにもなってくる。東京に戻りクライアントのオフィスへ。竣工後の問題解決。いい加減ぼやきたくなるがまあ仕方ない。建築家とは因果な仕事である。
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