大衆の終焉
朝の冴えた頭でコンペのことを考えながら既存施設の図面と睨めっこ。増築すべき面積をその上に描き込み余りに小さいので愕然とする。やはりこれは殆どインテリアのコンぺだ。インテリアの関係性を部分の集積として考えるのではなく有機的な全体として考えたい?そこで蔵本由紀『非線形科学』集英社新書2007を飛ばし読む。昔の高校の物理のような内容である。チューリンゲンパターンという面白い画像を発見。内容はとても理解できないのだが、、、、「建築の条件」消費社会の章を考え続ける。そこで先日買った難波功士『広告のクロノロジー』世界思想社2010の後半を読む。70年代後半から80年代にかけての広告自体のサブカルチャー化が語られる。先日読んだ堤清二と上野千鶴子の対談では上野が西武の70年代末の広告を画期的だったと評価していた。それは広告の指示対象物(商品)が広告から消えたという理由による。シニフィエに対してシニフィアンの過剰とも書かれていた。簡単に言うと何の宣伝?とわけのわからない宣伝のことである。しかしそれは若者には受けた。難波の分析による広告自体のサブカル化(若者のアートと化した)とはこのことである。大衆消費社会とは人々が使用価値を越えてイメージを求める社会だが、その終着点でついに使用価値が消滅したことを広告のアート化が示している。夕方風呂につかりながら成実弘至『コスプレする社会』せりか書房2009を一気に全部読む。コスプレが盛んになるのは90年代。つまり大衆消費社会が終焉してつぎの分衆消費が始まる頃からである。大衆と言うひとつのくくりにはめこまれた時代が終わり、大衆が分かれ、そしてさらに個人化していくのが90年代である。そこでは様々な社会現象が登場してくる。それまでとは異なりひとは「本当の自分に執着するように強い圧力を」かけられてくる。その現れの一つがコスプレである。本当の自分というにはやや屈折してるかもしれないが、それでもそこには他者とは異なる自分への執着がある。大衆の夢でもない。ポスト大衆的現象であることは間違いない。
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