読字
最近、ブエノス・アイレス大学に旅立った修士の学生からメールが届く。時差があるのでいいタイミングで返事が出せる。これがアメリカだと異国情緒も薄いのだが、antipodas(地球の裏側)からのメールだと思うと感慨深い。午後事務所でスケッチ、打ち合わせ、スケッチ、打ち合わせ。3日空ける事務所での作業の方向性と、明日から来るインターンシップの学生にやらせることを考えていたら夜になった。外はみぞれ。オー寒。終電のアサマで長野へ向かう。車中内田樹『邪悪なものの鎮め方』バジリコ㈱2009を読む。邪悪という言葉にひかれて買った本だが、なんのことはない、彼のブログの中から邪悪に関係する文章を抜いて並べた読み物だった。しかし売れっ子というのはブログも金になるのだからたいしたものだ。その中に文科省が推奨する小中高向けの「朝の読書運動」についての文章があった。朝の10分程度の読書が何の意味があるのかとバカにしていた著者だったが、学生の指摘を受けて目から鱗だったとか。それはこの運動の意味は読書させることではなく、読字にあるという指摘だったそうだ。人間は字をいきなりシークエンシャルな意味の流れとして捉えるのではなく、先ず絵として認識する。そしてその次の瞬間にそれらの絵を意味の列として理解する。なるほど。そうかもしれない。そしてこの絵としての認識能力が極点に達すると、絵は一瞬にして意味の体系へすり替わるところまで行くのだと言う。速読とはそういうことのようだ。ゆえにこの読書運動は読字訓練と考えると意味がある。というのが著者の結論。それを読んで、先日ネット上で遭遇した我が親父のことを語るある文章を思い出した。それによると彼(親父)はとんでもないスピードで本を読むのだそうだ(そんなことは50年間一度も聞いたことはなかった)。その時はへーそうかと思っていただけだったが、今日の読字の話を読んで、昔親父も似たようなことを言っていたのを思いだした。曰く「読まなくても見れば分かる」。その頃は冗談だろうと思っていたが、半分くらい本当のことなのかもしれない。
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