モードへの介入
土屋淳二『モードの社会学(下)』学芸社2009を読む。下巻の最初はモードと社会秩序と題して、モードを規定してくる外圧の話である。その外圧としてあげられるのは習俗と権力。そして国家がモードに介入してきた例として戦争時の制服のようなものがあげられる。まあ戦争時と言わなくとも、制服には常にその手の力が浮かび上がる。それが国立だと国家ということになろう。その上その制服がもと海軍の制服だったりするとこれは戦争の匂いまでしてしまう(我が母校はそうだった)。まあセーラー服と言われてそんな臭さも吹き飛んだキッチュならもはや結構だが。そんな制服を着ていても対して文句を言わなかった僕らは政治音痴だったのだろうか?学帽はポマード付けてフライパンで焼けと先輩に教わったが制服はそのまま着ていた。
そんな制服という権力に対してそれへの反発が生じるのは極めて正常な事態であり、それに文句も言わず従順に従う姿は滑稽でさえあると著者は言う。同感である。そう考えると國保選手の姿は権力に対する自然な反発と見えてくる。むしろ従順に制服を律義に着こなし、一糸乱れぬ部行進でもされようものなら、隣国のファッショを想像しないだろうか?まあ文科省の大臣が騒ぎ立てたが、そんな馬鹿な発言はさっさと撤回した方が利口だと僕には思えるのだが。
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