卒業式
午前中原稿打っていたらうっかり時計を見過ごした。四谷まで思い切り走る。なんとか予定のアサマに駆け込んだ。あああせった。車中もひたすら打つ。しかしこのタイピングの音はけっこううるさい。周囲に迷惑をかけているかもしれない。音が出ないキーボードが欲しい。
午後卒業、修了証書の授与式。夜謝恩会。謝恩会まで時間があったので卒業修了生にお手紙を書いた。こういうことはやるならやるで毎年やるべきだろうが、去年はやらなかった。一昨年はやった。気まぐれで申し訳ない。謝恩会は駅近くのメルパルク。長野のメルパルクは3層分の吹き抜けに膜構造の屋根が張られとても大きい。毎度思うが、こういう会に招待していただけて光栄である。別に学科長でもなんでもないが、締めの言葉をお願いされたので、ひとこと。
大人になる君たちへ
ここにいる君たちは、卒論と修論を書いてやっと大学から出られることになった。僕もそうで、大学で勉強した記憶はこの学部と修士の最後の年だけ。そして工学部に所属する君たちはきっとそこで科学的で論理的な思考をたたき込まれたはず。つまり1+1=2の膨大な繰り返しをこの一年間やってきた。
しかし、君たちの毎日の様々な思考や判断というものは1+1=2的におこっているとは限らない。君たちの一生を左右するであろう、就職先を決めることだって1+1=2的に決まらなかったはずである。そして君たちが社会に出て行くとそうした問題の方が遥かに多く現れてくるだろう。
僕の友達には1+1に滅法強い奴がいる。でもそう言う人に僕はあまり驚かない。一方1+1では答えが出ない問題に直面した時に極めて適切な答えを出せるやつがいる。僕はこういう人には頭が上がらない。彼らのこうした能力を「常識」と呼び、「常識」とは「明証を持っては基礎づけられないけれどなんとなく確信せらるる知見のことである」と誰かが言っていた。そう「なんとなく」の力である。そしてこの「なんとなく」は直感によって獲得される。この直感の優れた人間を僕は大人と呼ぶことにしている。そして君たちには是非これから大人になって欲しい。
ところでこの直観とは決してその字が暗示するかのごとく天の啓示のように降ってくるものではない。それは心の奥底におりのように溜まった無自覚な経験と知識の蓄積から論理的に生まれてくるものだそうだ。これは脳科学の世界で既に言われている。そしてこの澱のようなものを分厚く溜めることが直感による常識を持った大人になるということである。
そしてもしこの澱を溜める確かな方法があるとすればそれ読書である。大人になるために本を読んで欲しい。会社に入って、君が尊敬できる人がいたらその人の愛読書を聞いて是非その本を読んで欲しい大人への道が見えてくるだろう。
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