マス感性
午前中早稲田の演習。今日のテーマは階級性。ファッションと建築を階級と言う切り口で19世紀後半から現在までパラレルに語る。今日の一冊はソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』筑摩書房。流行は上流階級から下層に向かって滴るように伝搬するという話。階級ごとにスタイル化されたファッションも建築も近代市民社会の成立を期に同じスタイルを大量に供給せねばならなくなった。ここに求められたことは安く、早く、大量にである。だからモダニズムとは文化の牛丼化であると説明したのだが、それは言い過ぎか?
午後事務所に戻りクライアント電話で細かな入札スケジュール調整。いよいよあせる。来週からOBナカジに2週間くらい助っ人をお願いする。
夜、佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』を読み終える。実はだいぶ前からkindleが欲しいのである(未だ買ってないが)。理由は単純で、多くの本を持ち歩けるから。どれだけ持ち歩いても数百グラムである。長野東京往復の身には重いカバンは応える。加えて検索機能はたまらない。ただ持ち歩きたいのは建築洋書の定番というようなもの。サマーソンとかバンハムとかワトキンとか最近ならヴィドラーとかコロミーナ。だがそう言う本は未だ電子ブック化されていない。でもそれは時間の問題だろうから先ずはこのタブレットを横に置いてみたいと思っている。
なんていう気持ちがあるのでこの本を読んでみたのだが、電子書籍の意味する別の大きな問題提示に少なからず驚いている。それは電子書籍のプラットフォーム、例えばアマゾンではもはや二万円くらいでISBNを取得すれば無料で電子書籍が出版できるのである。後は勝手に定価を設定して売れれば何割かが自分に入ってくるのだ。こうしたself-publishは既に音楽では当たり前に行われている。こう言う時代の文化とは一体どうなるのか。ここで著者の面白い指摘があるのだが、大衆消費社会は85年くらいから分衆の時代、感性の時代へ移行したと言われるが実は90年代終わりくらいまではずーっとマス感性だったと言う。それが上記self-publishやself-distributionの時代に入って本格的に個の時代になって来たのだそうだ。そして今後一層マス感性が淘汰され個の感性が強化されると予想するのである。表現者も受容者もフラット化するということである。
こんな話を聞きながら、先日の建築巨匠三人の鼎談を思い出した。社会、世界、大地というあの発言。建築外と繋がりたいというあの発言である。あの建築の外とは一体何なのか?大衆消費社会にどっぷりつかった巨匠たちが建築の外を指す時その念頭にあるのは90年代のマス感性なのでは???と思えてきた。いやそういう俗っぽいことではないにしろ。多くの人通ずる感性であることには変わりない。しかるに現在建築の外は上述の通り一枚岩ではないのである。そしてどんどん個別化されていくのである。数多くの漂流する個性化した小さな宇宙である。その時多くの人に共通する感性とは何を指すことになっていくのだろうか?????
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