建築家は社会の言葉に追いつけるのか?
今日は土砂降り。雨は大嫌い。朝一のアサマに乗る。車中、奥村倫弘『ヤフートピックスの作り方』光文社新書2010を読む。ヤフートピックスとはヤフーニュースの最初の方に13文字で並べてあるニュースのサマリーである。僕は長野では新聞をとっていないのでヤフーニュースにはお世話になっている。あのトピックスを作るのに実に様々な試行錯誤や戦略があることを知る。午前中講座会議。博士論文の審査の打合せ。終って研究室に来客。昼食抜きで午後の講義。今日は『言葉と建築』のfunctionの章。この言葉が「使い勝手」という意味を帯びたのは19世紀も最後の最後。ワーグナーが『近代建築』で目的建築論を提示してからである。そんな言葉に僕らは日夜振り回されている。3時からゼミ。今日の輪読は土居義岳さんの『言葉と建築』久しぶりに読ませていただいた。日本にはフォーティーのような本がないなんて軽率によく周りの人に言うのだがここにしっかりある。GAの連載として書かれたものをまとめた本なのでそれなりにジャーナリスティックな読ませる構成ではあるが、言おうとしていることは同じである。建築の評価はその時代の広くいえば「エピステーメー」狭くいえば「言葉」によって規定されているということである。二つの『言葉と建築』を通読しながら僕らは言葉の呪縛からどうしたら抜けられるのかを考えさせられる。先日の伊東、坂本、富永鼎談も見方を換えればここに来る。モダニズム時代のエピステーメ―から抜け出てどうしたら社会と共有できる言葉を発見できるかということを皆さんおっしゃっていたように思う。しかるに社会の言葉は凄い勢いで変化する。それに建築の変化はついていけないでいるというのが実情のようにも見受けられる。建築がやっと変った頃には言葉はすでに違うところに行っている。そう思うと現在の社会と何かを共有しようなんて言っていたら何時まで経っても追いつかない。先回り、あるいは変わらない何かを目指さないと同じ地点に立つことはできないのではないだろうか?
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