キリンと住む家
朝アルゼンチンワークショップの打合せ。さあ後3カ月。急に学長裁量経費が削減されて予算が納まるか焦る。2コマめM2の修論ゼミ。午後3年生の製図。今日が最後のエスキス。残すは講評会。さてどうなるか?帰ろうと思ったら今月黄表紙を出す学生につかまった。ネイティブチェックを受けた1ページめの英文アブストラクトがよく分からないとのこと。読んでみると確かによく分からない。さて困った。再度書きなおしてネイティブチェックを受けることに。帰りのアサマで石山修武『生きのびるための建築』NTT出版2010を読む。どうして僕は石山修武なんて読むのだろうか?石山修武の建築を一つも見たことないし、ああいう形態に惹かれるわけでもないし、世田谷の展覧会を見に行ってないし、近づくと噛まれそうだし、、、、、でも秋葉原感覚とか彼の本は何冊か読んだことがある。どれも面白かった記憶がある。読み物として面白いから読んでいるのだろうか?なんてもやもやした気持ちで読み始めてなんとなく分かったことがあった。それは川合健二を師と仰ぐテクノロジストであり、流通や金に滅法強い石山がそうした側面と共存させているアニミズムへのこだわりかもしれない。すると僕はアニミズム崇拝なのか?というと僕の感覚をアニミズムというのは正確ではないかもしれないが、建築よりかはるかにそこから見えてくる外界全てに信頼があるという意味では全てに神が宿ると思っているし、全体より部分に信頼を置くと言う意味では細部に紙が宿っていると思うふしもある。そうした意味で石山の語りに惹かれる。ところでこの本の中に出てくるドラキュラの家とアライグマギンの家の話は傑作である。前者は(これは前から知っていたが)ゲイのカップルの家で窓も玄関も無く2階建の高さで1層ワンルーム。室内は鉄工場みたいである。子供部屋の話を始めて呆れられたそうだ。後者はアライグマを愛し、アライグマと二人で住む家。アライグマは窓が好きなのでアライグマの気持ちになってアライグマの好きな窓を考えたが分からなかったと言う。そうだろう。現代建築の様々な与件はもはや大学で習うことなど何の役に立たないところまで多様化しているのだと彼は言う。僕は今「幼児の施設」を大学で教えているが、幼児の好きな窓を考えろと言っても分かるまい。そんなことは調べがつかない。言葉も話せない幼児にアンケート調査することもできないのだから。アライグマと同じである。幼児の施設をやっているのはまさに多様化した現代建築のリクエストにこたえる一つの訓練である。石山はキリンと暮らす人が次に来ないかと期待したそうだが、テレビのCMでは既にそんなことが起こっている。幼児の施設の次は「キリンと住む家」というのを課題に出そうかな?
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