哲学というものはとてつもなく本質的だけどつくづくまどろっこしい
現在検討中の某計画のスケッチを構造設備に送りおおよその構造と設備の考え方をまとめ図面の修正と模型の作成を指示して事務所を出る。夜長野に向かう車中高田明典『現代思想のコミュニケーション的転回』勁草書房2011を読む。哲学的転回は認識論的転回、言語的転回、解釈学的転回そして現在コミュニケーション的転回という4つ目の転回を迎えているという話。どこかで聞いたストーリーだと思って彼の前著を見てみたがそこには書いていない。一体どこだったかと思って本棚を探したが見つからない。50にもなると記憶力がどんどん低下する。そんな時このブログと言うやつは便利である。ブログに検索機能がついているのだ(ということをこの間知った)。「言語的転回」と入れて検索すると出てくるではないか。ブログに記した読書メモが引っ掛かるのである。大賀祐樹『リチャード・ローティ――リベラル・アイロニストの思想1931-2007』藤原書店2009にこの3つの転回が述べられていることが分かった。しかし本を引っ張り出して机の上に置いたまま読んでいないのでこの認識がローティー独自ものか、哲学では一般的なことなのかはよく分からない。この哲学的主軸の変遷はすごーく簡単に言えばこうなる。哲学とは物の本質(存在)に到達することが主眼だった。ところがそんなところへ到達するのはなかなか難しい。そもそもそんものがあるかどうかも分からないし、おれとおまえじゃあ頭の構造も違うし、だからみんなでどこか一点に到達するなんていうことはあり得ないだろう。なーんていう状態だから、よく話し合ってみんなでそこへ到達しようぜというようなことである。うーん哲学と言うやつはとてつもなく本質的だと思いつつ、どうにもまどろっこしい話でもある。
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