ぶっ飛ばない修士設計
さて今日は修士論文設計発表会。発表会連ちゃんである。さすが修士は大人だね。この時期の2年は大きい。先生の質問に勇敢に立ち向かうやつも多い。だいたいはずしているんだけれどたまに的を射た答えも返ってくるところが修士である。
さて我々の部屋4人いて全員論文付き設計。今年は純粋論文なし。昨日のぶっ飛び学部設計とは異なり少し大人である。
①ハンス・ユルグ・ルッホのintervention(介入)概念を基に数百の介入型建築事例のタイポロジー化を行いそのいくつかを用いながら工場を美術館に。梅干野先生にするどくつっこまれた。「結局ハンス・ユルグ・ルッホで創っているんじゃないの?論文の分析は生かされているのですか???」
②生物概念に基づく市庁舎の設計。彼粘菌の研究ずっとしてたのだけれど、どういうわけか最後は巻貝になっちゃった。 「もっとべたに巻貝みたいな方がいいんじゃないの?可愛らしくて人気出るんじゃない??」とある教授に冗談とも本気ともつかない突っ込みを受ける。
③一室空間住居の数百の事例分析に基づき長野市役所の設計。全部可動壁。「本当に動くのかこの可動壁????」と思いつつ。これも膨大な分析がもうひとつ生かされていないよな。
④アナロジー手法の分析の末、鳥の巣使って小学校設計。「小学校でこういうことすると子供が登って落っこちるのだよ。違う施設でやりなさい」とある教授の鋭い指摘。おっとそれに気付かなかったのは指導教官の責任だな。アナロジーで具象と抽象の中間を狙ったデザインとしては理解できるね。
学部生はわけもわからず論文のようなもの書いてその論文と制作がもう一つ繋がらない。それで勝手にぶっ飛んでいる。一方修士は少し連続性をつけるべく必死にもがくのだが論文が創造の加速器にはなれないで終わっている。知性の無い四年はぶっ飛べて、知性がついた院生は飛べない。建築ってこんなもんだなあ。でも知性つけて飛べるようにならないとな。
修士発表会の後は毎年手伝ってくれた下級生を招いて40人くらいの大パーティなのだが、今日は事務所に直行で戻る。車中菅原克也『英語と日本語のあいだ』講談社現代新書2010を読む。この先生東大で英語教えているのだが、現代英語のコミュニケーション力重視の指導方針の中で、文法、読解軽視に疑義を呈する。大賛成。英語の授業を英語でやるなんて日本でやっても無意味。中学校で外人に英語を教えてもらうのも無意味。そういう教育は毎日2時間英語漬けみたいな状況で始めて意味を持つ。日本なら徹底して文法と読解やった方がいい。英語を話したり聞きたかったりするならさっさと英語使っている国に行った方がいい。東京駅で丸善寄って宅配頼み事務所へ。
You must be logged in to post a comment.