僕らを覚醒させるのは震災だけではない
午前中ジムに行ったら、ここも節電のためか営業時間が短縮されプールは水が抜かれていた。午後事務所で明後日の打ち合わせの打ち合わせ。夕方帰宅して食事してから長野へ向かう。車中鹿島茂『『パサージュ論』熟読』青土社1996を読む。
先日誰かがポストモダニズムとは金魚鉢のようなものだと言っていた。もちろん人間を金魚に例えての話である。つまり金魚にとって唯一見えないものが金魚鉢であるように我々にはポストモダニズムは見えないということである。
ベンヤミンがパリのパサージュをきっかけにして資本主義の夢から覚醒したようなそんなきっかけが我々をポストモダンの夢から覚醒させてくれるのだろうか?とこの本を読みながら感じた。そしてそんなきっかけは50も過ぎた人間には到底見つけられないのかもしれないとも思った。ベンヤミンが言うようにそうしたきっかけは子供の持つ再認識力にしか見つけられない。子供は「まったく新しいものの中に『すでにある』アルカイックなシンボルとして認識する」力があるからだ。でもまたベンヤミンが幼少のころシンボル化したベルリンのパサージュのように、僕も幼少のころシンボル化した何かが50過ぎてから蘇りそれがポストモダンの金魚鉢からの覚醒を促す可能性もある。
今世の中は大震災をきっかけにさまざまな反省に促されている。それはとても重要なことだと思う。でもこのことだけが我々を夢から醒ますとは思えない。いやむしろ危険でさえある。こういう時だからこそ覚醒を別の角度から考えないといけない。
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