カラヤン型かチェリビダッケ型か?
最近自転車に乗ると体調が悪くなる。理由は分からないけれど今日はマスクして帽子かぶって大学に行った。午前中コンペの打ち合わせ。午後課題の敷地を再度よく見たく北の丸公園へ。武道館は誰かのコンサートで黒装束で化粧した若い男女が凄い人数集まっている。その脇を抜けて池を回り近代美術館へ「路上」展を覗くhttp://ofda.jp/column/。420円と安く、量も多くないけれどピリッと小粒でパンチのきいた展覧会。
帰宅後片山杜秀編集『思想としての音楽』講談社2010の中から片山杜秀VS菊池成孔と片山杜秀VS許光俊の二つの対談を読む。菊池の語り口は相変わらず鋭いし本音ベースでいいなあ。例えば現代音楽の音楽家(恐らく作曲者も奏者も)を菊池は三つに分類する。①マゾ上がり(退屈に耐えられる)、②頭が良くなってここまで来た人、③幼稚園のころから無調が好きだったりする(感性で退屈が好きな人)。この分類が既に凄―く冴えていると思うのだが、、、、先日、音楽の形式主義って快感レンジが狭いと書いたけれど音楽のプロもそう思っているということがこれで分かった。逆に言うと建築、まあ広く造形芸術を受け取る視覚というものは聴覚や味覚や嗅覚に比べると遥かに不快レンジが狭い、、、、という気がする。
さてもう一つの対談は片山が許に「最高の演奏」とは何かと聞く対談。ここで許はカラヤンとチェリビダッケの差をスリラーとドストエフスキーだと言う。つまり同じクラシックでも喜ばせる相手の領域が違うと言うわけである。それって良い表現だと思った。建築もそんな感じが常々する。カラヤン型の建築家とチェリビダッケ型の建築家がいたりする。もちろんカラヤン型の建築家の方が人気は上がる。
それにしても、音楽って片山にしても、許にしても、菊池にしてもきちんと評論する人がいるモノだと感心する。建築って批評の貧困な場所である。建築家が勝手に自分の都合のいいことだけを語っているに過ぎない。
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