天井に丼が見える
明け方、痛み止めの点滴でオフクロは眠りにはいった。10時ころ甥っ子と入れ替わりで帰宅してシャワーを浴び大学へ。昼から修士の推薦入試。僕の研究室は他大学から2名、学内から4名の受験者。8月に一般入試があり年明に社会人入試があり来年の院生が決まる。夕方病院へ。オフクロがうなされて「船ドンブリ」と連呼している。目はパッチリ見開いているのだが天井にあるカーテンレールがそう見えているようだ。
この連呼を聞きながら昨晩読んでいた古賀一男『知覚の正体―どこまでが知覚でどこからが創造か』河出ブックス2011を思い出す。知覚とは二つの部分で構成される。感覚と呼ばれる神経系が外界の刺激を取り入れる前半部分。それがどのように感じられたかという後半部分。前半は物理的客観的事実であり、後半は「環境、経験、学習を加味して適切に、あるいは不適切に修飾される」。さらにその後の段階は認知と呼ばれ知覚現象の主観的評価が行われる。そうした一連の脳の作業の中で我々は一体何処までが事実で何処からが創造なのかを見誤る可能性があるわけである。そんなことはどうでもいいではないかと思いつつも、建築の知覚をある程度客観的にとり出そうとするとどうしてもこういう問題にぶつかってしまう。下手するとオフクロのように記憶がオーバーラップしてあるものが違うものに見えてくることもあり得るわけである。
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