君はショック・ドクトリンを読んだか?
『ブランドなんか、いらない』で10年前にデビューしたナオミ・クライン(幾島幸子、村上由美子訳)の話題作『ショック・ドクトリン』岩波書店2011を読んでみた。タイトルshock doctrineは直訳すれば衝撃原理である。一体何事かと思うのだがその内容は新自由主義批判である。しかしそれはその内実の批判にとどまらず、いやむしろその内実批判よりもその導入、伝搬の方法を批判するところが特徴的。
気になるタイトルのショックとは世の中の天災人災を指すのだが、話は拷問から始まる。CIAの拷問術は外界からの情報を一切遮断し(ヘッドホンを付け目隠しし)数カ月放置し、その後強烈な刺激(光、音)に晒す。これによって被拷問者は自らの意志を失い拷問者の言いなりになってしまうのだそうだ。
この原理を政治経済に応用したのがアメリカ新自由主義の首謀者たちだと著者は言う。具体的にはハイエクを師としてシカゴ学派を築いたノーベル賞受賞者ミルトン・フリードマンである。彼に先導された新自由主義者たちは巨大災害で判断力を失った人々の隙をついて自分たちの思い通りの主義主張を引きずり込んできたという。フォークランド紛争1983後のサッチャ―、イラク戦争2003後のブッシュ、スマトラ沖地震2004後のスリランカ政府、ハリケーンカトリーナ2005後のリチャード・ベーカー。
彼らは全て天災、人災のショックで放心し、自らの意志を失った人々に時代が変ったと洗脳し過激な自由競争による資本主義を導入してきたのである。
訳者あとがきで幾島幸子は3.11後の日本を案じている。復興の名を借りて住民無視・財界優先の政策が打ち出されないかというわけである。
先日ある県トップのゼネコンの社長が嘆いていた、震災復興には全く参入する余地は無いと。政治と限られた巨大ゼネコンの緊密な関係の中で全てが進もうとしている。スーパーゼネコンはこれによってこれまでの負債を全て解消できるだろうと。本当かどうかは知らないが十分あり得そうな話である。
3.11は一つの標語でさえある。ライオンの食い残しにたかるハイエナの如く、ジャーナリズムも評論家も建築家も土建屋も政治家もとにかくたかる。心ある人もあればない人もある、そして全てはこのショックから立ち直るためだと言わんばかりである。しかしこの状況はどうかと思う。熱い心と覚めた目が必要である。
意思というものがなければ、神の意思か人の意思かも区別がつかない。
天災と人災の区別もつかない。
国がひっくりかえっても責任者は出てこない。
意思は未来時制の内容である。
日本語には時制がない。
日本人には意思がない。
ボランティアは自由意思の人である。
意思のない社会のボランティア活動は強制労働に近いものになるのか。
意思のない社会では、政治家が政治屋になる。政治屋が政治家になる国である。
三流政治は治らない。
とにかく、役に立つ人選びが盛んである。
役に立つことは、目先・手先に関する事柄である。
それ以外の次元に関する事柄に話を集中させることができない。
未来社会 (理想社会) を建設する話は何所へやら。
先のみえない未来に関する不安は、解消さける見通しが立たない。
目先・手先の事柄にとらわれすぎているので、刹那は永遠のごとくに見えている。
だから、我々はどこにも行かない。行く目算が立たない。
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