日本版『言葉と建築』の不可能性
藤井正一郎・山口廣編『日本建築宣言文集』彰国社2011(1973)を読みながら、明治大正の日本建築論の展開は一言で言えば、「芸術か技術か」の二者択一に終始していると感じた。もちろんディテールはいろいろあるし、大正も後半になればマルクス主義的な思潮が建築論にも影響を出し始めるのだが、、、、、
ところで前々から日本における『言葉と建築』が描けないかと思っていたのだが、この本を読みながら、これは無理であることに気がついた。というのはフォーティーの『言葉と建築』の最も重要な視点は西洋の建築論において近代のヴォキャブラリーが何時からどこで使われ始めたかを照射することで近代がどのような価値観の地平(エピステーメー)の上に成り立っているかを明らかにしているからである。言いかえればフォーティー論の特質は空間とか機能という近代になって初めて使われた言葉を採取することでその時代の価値観を浮き彫りにしたのである。
しかるに日本建築においては近代以前に論はないので。近代において輸入された「建築」にまつわる言葉たちはそもそも日本の価値として存在していたのかどうかが見極められない。つまりそれらの言葉が日本の近代建築において初出の概念かどうかが判定しにくいのである。
それゆえそんな作業をする意味も無い。言いかえれば日本の建築論をフォーティ―的に明らかにするとしたならばそれは近代にはないのかもしれない。たとえば20世紀後半の建築概念の変化をそうした視点から分析するのならまだ可能性はある。しかしそれをやる意味があるのかどうか今のところ不明。
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