いまこそハイエクに建築を学べ
自民党政権の最後の方に登場した小泉純一郎は社会を自由競争の渦に巻き込んだ。彼の思想は新自由主義と呼ばれその思想の根っこはフリードリッヒ・ハイエク(1889~1992)と言われている。ハイエクの思想を受け継いだミルトン・フリードマンは自由競争経済を主張し世界に自由競争の嵐を巻き起こした。そのフリードマンは世界中の危機的状況に登場しては自由競争社会を組み込んでいった。一般的にはそういう施策は格差を増大させ批判的に捉えられ『ショックドクトリン』というような著作も生んだ。
ところでそんな悪の権化ではあるが実は本当にその思想の根源は悪なのだろうか?ちょっとそんな疑問が湧いてくる。なぜなら自由を渇望することはごく自然なことだからだ。仲正昌樹『いまこそハイエクに学べ』春秋社2011を読むとやはりハイエクの思想自体は頷けることも多いことに気づかされる。
例えば彼のもっとも根源的なテーゼは「設計主義の誤り」という論のタイトルが示す通り、行政が社会的ゴールを設定してそれに向かって緻密な設計を行うことの否定である。彼はそう簡単に人々の共有できる価値を設定することはできないと警鐘をならしたのである。この考えには僕も賛成である。そして現在、社会はハイエクの曲解による新自由主義あるいはリバタリアニズムによってある歪みを生んでいる一方で、「設計主義の誤り」に示される考え方は様々な分野で適当なものとして受け入れられている。
例えば街づくりや建築の設計においてもこの考えは正当な権利を持っている。昨今の設計ではユーザーの自由度を許容しようという発想はどこかに仕込まれている。しかしそうは言っても設計する人間が設計を全面的に否定することは難しい。この理屈を真に受けて何も作れない学生がうろうろしているのはご承知の通り。話を政治に戻せばハイエクもそのことは分かっている。「設計主義の誤り」とは設計を否定しているのではない。何を設計すべきかを示唆しているのである。
そこでハイエクの次に用意されているテーゼは「コスモスを通して考える」というものである。個人の自由を最大限認めたとしてもそこにはコスモス=自生的秩序があるというのが彼の考えである。歴史の中で進化してきた秩序、あるいはこれから生成していくだろう秩序が社会を動かしていくというものである。建築につなげて語るのならば、使われていく中で様々な水準で秩序が現れてくるような設計をすること、又はクライアントあるいはその場所から歴史的に淘汰され残っている秩序を掬い取ること。ということになろう。
ハイエクから建築的に学べることがあるとするならばそれは①作りすぎないこと②多様な秩序の生成の可能性を作ること。③クライアントや場所の中に歴史的な秩序を見出だすこと。ということだと思われる。
一般社会の理念として全く同感。教条的に新自由主義を単純に捉えて、まるで、悪の権化のような議論は、逆にブッシュにも通じる。国家と官僚が絶対真実と仮定して、国民が考えることを停止したのが日本の問題。自由な発想と、社会公正のバランスを保全する仕組みがポイントでしょう。
潜道さん何時も的確なコメントありがとうございます。
自生的な秩序を育みつつ、その全体を緩やかに統合して、なおかつ歴史に位置付けられるような強度をもつこと。アクティビティを含めた全体で見れば、建築の規制の緩さや鈍重さが効く局面とWebの直裁性や速効性が効く局面とがあるのでしょうね。