ノーテーション再考
先日ノーテーションについて記すとある人が10+1の#3がノーテーションとカルトグラフィーの特集であることを教えてくれた。そんなことはすっかり忘れていた。古本を取り寄せ巻頭の八束さんの「現代建築におけるノーテーションの冒険―見えない建築へ」を読んでみた。時間系を取り込んだローレンス・ハルプリンの広場の設計がダンサーである妻のコレオグラフィーのノーテーションに影響を受けた例。磯崎さんがお祭り広場の人々への応答としての音や光をオーケストラのスコアの如くノーテーション化した例が書かれていた。それらはいずれも建築的ハードと言うよりはその場のイベント(出来事)を創造(想像)するシナリオである。
それらの現代版がラ・ヴィレットのチュミやレムの案である。いずれもドローイングに示された重要な内容はアーキテクチャーよりもイベント、あるいはそのイベントが生み出すシーンである。それゆえできあがってしまったチュミの案はドローイングがかき立てた想像的な場を生みだし切れていない。
つまりチュミやレムもハルプリンや磯崎同様、やはりノーテーションが生み出しているのは字義通り楽譜が生み出す音楽のようなふわふわしたものであり固定的な何かを生みだすものではないようだ。
しかし僕がノーテーションを考えた方がいいいというのはこういうふわふわしたモノを記譜するためにではない。あくまで固定した建築を創るツールとしてである。そしてそれは最後の成果品としての図面というよりは、建築を創る過程における創造(想像)のツールとしてのノーテーションである。建築家のドローイングはそういうものの一つではある。しかしもっと方法論に直結するようなノーテーションがあってしかるべきだと常々思う。そしてそれを何にせよ考え続けなければいけない。
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