ネット社会に育った若者は自分の能力を見誤る
佐々木敦『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』筑摩書房2011の中で著者は学生から「テクノに興味があるけれど何を何処まで聞けば極めたことになるのか」というような質問を受けると書いている。これを読んでああ同じことが僕にもあると思った「建築意匠をやりたいのですがどんな本を読んだらよいのでしょうか」という質問である。
佐々木も言う通り僕も学生時代にそういう疑問を持ったことは一切ない。というのは何故かと言えば佐々木の場合はあるミュージシャンを極めようとしても売っているレコードなんて限られていた。僕で言えば売っている、あるいは借りられる大事な意匠の本なんてせいぜい50冊も無かった。そんなもんである。
ところが世の中にgoogleが登場したおかげで聞ける音楽も本も動画もある時突然無限になった(なりそうだ)。その状況に直面した学生は突如自分がとてつもなく有限なモノに感じられる。というのが佐々木の分析である。それゆえ無限のセカイに対する有限のワタシを過小評価してしまう風潮が生まれた。そうなるともう無限のセカイに正攻法で攻めるなんて馬鹿なことはしなくなる。一番おいしいところを誰かに聞いて食ったもの勝ちというわけだ。
さてこれが正しいことなのか?と思わず唸る。多分半分正しいのだろう。でも無限のセカイにたいする自分を相対的に無力と思うことは実はあまり意味が無い。何故か?そんなこと言ったら世界中のすべての人が無力になってしまうからだ。1995年人間は突如無力に成ったわけがない。もしそうなら、古来人間は無力と言うことになる。しかし事実は違う。
つまり有限な人間が無限なふりをして頑張ってきたのである。ネットは無尽蔵なエネルギーを我々に与えるツールに過ぎない。そして結局有限な人間が精一杯頑張って獲得した程度のものでセカイを見渡し何かを発言することで十分なのである。この「十分」というのがとても重要である。決してそれは「完璧」ではない。でも「完璧」である必要性が無いのである。それは人間がそもそもいい加減な存在だからだ。
しかし「十分」ではなく「完璧」が求められていると信じてしまうと急に自分を過小評価してしまう。「十分」以上のことがセカイを動かすと思っている人がいるとすれば、その人たちの考えはとりあえず2012年においては誤りである。後50年もすればそれが正しくなるかもしれないが、少なくとも現在学生である君達にとっては誤りである。君達は有限な力で把握できることをもとに発言する権利を持っている。そしてそれで十分なのである。
You must be logged in to post a comment.