魚の群れになるまい
夕方事務所で久しぶりにヤマギワの堀さんとお会いした。ヤマギワが秋葉原から撤退した話を聞いた。リビナが無くなったのは知っていたがヤマギワ全体が姿を消していたとは知らなかった。
夜大塚英志、宮台真司『愚民社会』太田出版2012を読む。先日宮台さんの上から目線に辟易したのでこんなタイトルの本を読むとますます気分が悪くなると思ったのだが、今回はすっきりした。宮台、大塚はかみ合っているのかいないのかよくわからないが、2人はメタレベルでは同じことを言っていると意気投合している。
大塚のあとがきを読むと彼の超がつくほどの上から目線が腹立たしさを超えて快感となる。3.11以降の日本人の(特に知識人の)付和雷同性に苛立ちを隠しきれない大塚曰く「既にもう人々の関心は震災から原発にそして意味も分からないままTPPにシフトして結局サッカーにいく、、、」「今あるのはメディアも知識人もその空気をひたすら読み、ツィートしつつ空気をチェックし発言するさもしさだけだ。僕は誰かと同席するたびに隣でツィッターのフォロワーをチェックしつつ発言する「思想家」たちを見てみんな死ねばいい、とアスカのように思う」僕は3.11後のすべての状況を十把一絡げに大塚的状況だとは思わないし、大塚のように何もしないことが空気に流される「魚の群れ」への批判となるかどうかよく分からないけれど、3.11に何でもかんでもかこつけて話したがる風潮にはついていけない。
現代思想の6月号に有名な建築家が多木浩二の追悼文を書いていた。生きられた家を失った被災者の呆然とした姿に『生きられた家』の意味をこれほどまでに思い起こされる時は無いと結ばれていた。僕にはちょっと信じられないような文章である。『生きられた家』の衝撃的なインパクトが高々(大変失礼な言い方だが)震災で失われた家を思い起こす程度のものだったのか?と。そんなことはあり得ない。80年代にこの本の持っていたインパクトが日本の建築を変えたと言ってもいいはずである。
もちろんこの有名な建築家が震災を前にして大きな衝撃を受けたことを否定はしない。しかしそのことと多木浩二の死は何の関係も無い。
魚の群れには成るまい。大塚に挑発されるまでも無く重要なことである。
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