テルマエロマエ的感性はいつまで続く
谷川渥『肉体の迷宮』東京書籍2009は高村光太郎、谷崎潤一郎、黒田清輝の肉体観を「日本人離れ」というキーワードで描く。乱暴にまとめれば彼らの彫刻、文学、絵画に現れる肉体像は日本人のそれではなく、理想化された西洋の肉塊への羨望に基礎づけられたものだったということである。
これを100年くらい前に生まれた人たちの話といってあっさり片付けることはできない。今から30年くらい前に大学院一年で初めて行った外国バーゼルの設計事務所で僕は夏休み働いた。事務所のボスはイタリア系スイス人。カラフルなシャツの前をはだけでぶ厚い胸板に金のネックレスがとてもよく似合っていた。背丈は同じくらいだったけれど映画スターのようなオーラが漂っていた。次のボスはドイツ系スイス人190センチくらいの八頭身。プロポーションがもはや異星人である。漱石はロンドンのショーウィンドウに映る自分の姿を「妙な顔色をした一寸法師」と言ったわけだが自分も同じだった。
そして最近売れている漫画『テルマエロマエ』では現代の日本にワープしてくるローマ人が日本人を見て「平たい顔」の民族と言って驚いている。そんなシーンに日本人は自虐的に腹を抱えて笑う。
1世紀経っても日本人離れに打ち勝てない日本人のコンプレックスとはなんだろうか?日本人は生まれた瞬間に西洋のプロポーションや肉体形状や顔の作りを至高の美と思っているわけではない。黄金比と言うものも作られたものに過ぎない。我々はただただ後天的にそれらが美しいことになっている世界に巻き込まれているのに過ぎない。そしてそれが1世紀以上続いているというもの面白い。
ギリシア美術が作り上げた肉体美が崩壊し日本的肉体がそれを凌駕する時代はいつか来るだろう。それは浅田真央がすらりとスリムで欧米のグラマラスな選手より美しく見えるようになったからではない。2000年以上かけて作り上げられたユーロセントリシズム美学がもはや一方的に世界を支配できなくなるであろうと思うからである。世界の感性はフラット化しつつある。そんな時代になれば建築のいかがわしいプロポーションという言葉の内実もそれに合わせて変るはずである。八頭身建築が美しいなんて昔の話となる時代が来る。
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