思考のオフが感情をオンにする
人はものを認識する仕組みを皆同じように持っていると言ったのはカントである。人は心の中に空間、時間と言う枠組みを持ち、その中に見たものを放りこみ、次に量、質、関係、様相という観点から理解しようとするのである。
しかし場合によってはそんな仕組みに放りこまれてもこいつらがうまく機能しなくて、あるいは機能する必要が無い状態ってある。
ピラミッドを僕は見たことないけれど、もし見たらあまりの大きさにきっと思考が停止するような気がする。バラガンの黄色い教会見た時も思考が停止した。近いところではシーザを見た時もややそれに似た状態になった。
思考が停止するとはどういうことか?例えば大友良英は高橋悠治のワークショップで目をつぶって音を聞き、それが何の音かを判断しないでひたすら音だけを聞くという訓練をさせられたと言う。
五感を通じて何かを感じた人間はそれを理解しようとする。そういう行動を分節化するとも言うのだが、聴覚なら「何の音?つまり音の発信源」味覚なら「何の味?つまりその味を醸す料理の名であったり、その味を表現する形容詞だったり」触覚や嗅覚なら「そのさわり心地や匂いを表現する形容詞」、そして視覚はというとここには他と比べ物にならないほどの情報量があるため様々な分節化がおこる。「見えているものは何かに始まり、それらを要素に分解して、それぞれの名詞を見つけ、色、風合い、形を見極め、、、、、ときりがない」
話を戻すと思考が停止すると言うのはどの感覚器官においても上のような分節化が止まるということである。もちろんそれは意識的に止めるといういよりかは、外界、あるいは主体の様々条件がそろった時に起こるスイッチオフなのである。
一般に外界の刺激によってそれを理解する主体が経ち現われ、それによって外界は客体となる。思考停止状態では外界の刺激は入り続けながら、それを理解する主体というものが経ち現われないのである。よってそこには主体と客体の分離が現れない。こんな経験を「主客未分離の純粋経験」と名付けその経験にこそ実在があると言ったのは西田幾多郎であった。
おそらくほとんどの人がこんな純粋経験をしたことはあるだろう。そしてそんな停止状態の次には往々にして大きな感動、悲しみ、喜び、驚きという感情の変化が現れる。そんな感情変化のスイッチとなるのがこの思考のスイッチオフなのである。
これから撮影するリーテム東京工場の5分の映像を作るにあたって撮影クルーにお願いしたのはこんな思考停止を生む映像を作ることだった。
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