建築と取り結ぶ無為の共同性
その昔フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの『遠くの都市』と言う本に解題を書いた。その折にナンシーの主著『無為の共同体』という本を読み、たいそう感動した。無為には二つの意味がある。一つは何もしないでぶらぶらしているということ。もう一つは作為の無いことである。無為の共同体の無為は後者の意味である。つまり人間社会は意図せずとも共同性を持つ運命にある。その理由は人間とは死ぬものであり、他者の死に直面した周囲の人間はそれを悼みあうことで繋がるからだと言う。
これを読んだ時ああ人間だけではなく、人は身の回りの建築環境、自然環境とも無為の共同体を作っているだろうと思った。周囲の環境の好き嫌いにかかわらず、それらが死に至らしめられたら人は命なきそうした環境にさえ悼む気持ちを持つはずだから。
それは震災の過酷な映像に登場してきた人々の姿が実証した。しかし一方で我々は悼む気持ちなどさらさらなく平気で環境を死に追いやる風景を目のあたりにしている。往々にしてそういう風景の演出者は政治と資本である。
僕らはそろそろそういう風景に終止符を打ち、自らの建築環境との間にも無為の共同性が生まれることを求めていかなければいけない。
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