自分に内在するものを探求することは結果的に和の探求か
Matohuと言う名のアパレルブランドがある。「マトフ」と読み「纏う」という日本的概念を中軸に据えたブランドである。
彼らの探求の方向は高階秀爾が言う日本美の個性:大きなものではなく小さなもの、力強いものよりも愛らしいもの清浄なものなのだそうだ。
しかしこの探求は類型化された日本性の追求ではなく自分たちに内在する日本性の追求であり、これまでの西洋対日本の中での日本性とは一味違うものだと高城梨理世は言う。
この発言はロジカルにはもう一つよく分からないのだが、建築にあてはめると少し分かりやすい。例えば堀部さんの建築などが西洋対日本としての日本性を追求しているとは思わないけれど、僕らに内在する日本性の探求と(もし)言われたらなんとなくそうかなと言う気になる。それは上記高階の言う日本美の個性の追求であり、西洋対日本と言う戦略の中での類型化されたイメージの具現化ではない。もしかすれば「小さい家」を考えている塚本さんだって自分に内在する日本性を探求している人かもしれない。
なぜこんなことを考えているかと言うと、もしかして自分も結局そういうことなのだろうかとも思う時があるからである。すなわち自らに内在する何かを模索する人は日本性の呪縛から逃れることはできないはずなのである。
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