スポーツ新聞のような論文を書こう
昼から大学院の学内選考を行う。終わったら夕方。結構かかる。すぐに帰宅しようと思ったが研究室から見える緑にしばし見とれる。読みかけの本を鞄から出し、残りを読み終える。森田邦久『科学哲学講義』ちくま新書2012。よくある科学の妥当性、科学性の話しである。なんとなく聞いたことある話が多いのだが、一つ面白い指摘があった。
科学的な命題とは何かという問いに、「間違っていることを証明する手段があること」という一般的な説明がある。これは「反証可能性基準」と言う。「神は存在する」と言う命題は「神は不在」を証明する手段が無いので科学的命題ではないということになる。
建築のデザインなどやっていると、実に科学的ではない言葉を吐くことが多くなりがちである。しかしなんとかそれを回避して、科学的とまで行かなくても妥当性の高い言葉にしたいと思うものである。つまり反証可能性をかろうじて担保するようにしたいと思うのである。
さて反証可能性を担保したうえでの話だが、、、著者は「反証可能性というのは情報の価値とも関わる」という。なるほど!!!!反証可能性が高い情報ほどそれが正しければ価値があると言う。例えば、「妹島和世が受けた建築的影響の最たるものはシルバーハットの開放性」という命題があったとする。これはもちろん反証は可能だから科学的命題。そして昔のボスの自邸なのだからそう聞いてもさもありなんと思う。だから反証する可能性は低い。一方、「妹島和世が受けた建築的影響の最たるものは幼少の頃近所に沢山あったガラス温室の透明性」という命題があったとする。これも、もちろん反証は可能だから科学的命題だけれど、「ええええそんなこと聞いたこともない」と皆思い反証したくなる。つまり反証可能性はとても高い。
しかしもしこのニュースが正しければ、この情報価値は「シルバーハット」より高いのである。
論文も同じである。なるべく「ええええええ、うっそ」と言うような反証可能性の高い命題を証拠付きで提示する方が価値は高い。皆が「そうだよね」、というようなことを結論ずけても価値は低く、何たって面白くない。信じられないということを結論づけることに論文の意味はある。
なんかこう言うといかがわしいスポーツ新聞のように書くことを勧めているみたいで気が引けるが、あれだって確かな証拠があれば情報価値が高いのは言うまでもない。
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