気が散るフレームとは
ああもう少しゆっくり勉強できる環境が欲しい、雑用多過ぎだ。
ノーマン・ブライソンの「拡張された場における<眼差し」>を何度も読んでいる。これはハル・フオスター『視覚論』平凡社2007所収の論考である。この論考の趣旨を簡単に言うと、近代の視覚はある限定されたフレーミングの対象に焦点があっているのだが、実は僕らの自然な視覚とはその限定されたフレーミングの「見えない」ことになっている「周辺」を感じ取っているということなのである。それでそういう<眼差し>を表象するにはどうしたらいいかと言うとそのフレーム自体を崩すような技法しかないとブライソンは言う。
つまり壊れたタブロー、額縁がちょん切れて壁に垂れ流されたような絵画なわけである。なんていうと実にべたであってそういうことでもない。でも絵を見ながら絵が置かれている世界を感じるようなことだと思う。ブライソンは雪舟の禅画を挙げていたけれどわからなくもない。
何でこんなことを書くかと言うとこのブライソンの視覚は僕が建築に思うことと重なるからである。僕が建築はフレームだと言う時に思うことがこれにかなり近い。建築が切り取る対象に人の意識を集中させたいと思いつつ、僕はその意識が散って、つまり「気が散る」ようなフレームを作りたいと常々思っているのである。
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