歴史を相対化する
僕が本を選びPD天内君に進行を任せている輪読に今日は出席した。今日の輪読本は与那覇潤『中国化する日本』である。
この手の本には批判は山とあるが敢えて読ませている。がどうも学生たちの議論を聞いていると不要なディテールに入り込みこの本の歴史枠組みの読み替えの意義に話が及ばない。
この本のポイントは明治維新が自由競争社会を目指し、志半ばにして前時代の江戸的平等社会に戻り、現代ではそれが世界的に推進していることを西洋というこれまでの参照項ではなく中国(宋)という新たな参照項で語ることで歴史を相対化している点にある。
日本の歴史を自由競争社会の挫折という視点から記した書はこれが最初ではない。例えば山本七平が1975年に季刊歴史と文学に連載した「日本型民主主義の構造」も同様である(この論文は『なぜ日本は変われないのか』桜舎2011として復刊されている)。
そこでは日本の組織は西洋のそれと異なり正当の前に調和と平等が重んじられる。明治維新では正当を調和・平等の前面に押し出したのだが志半ばにして挫折してやはり調和・平等が前景化したと記される。
また岩波新書編日本近代史シリーズの第十巻『日本の近現代史をどう見るか』では明治初期は政府と民権派の2極構造では無く、この他に自由競争に乗る気の無い民衆なるものがいて自由競争社会の歯止めになっていたと記されている。
与那覇潤の記述はそれゆえ、その内容の新鮮さにあるのではなくその書き方にある。つまり参照項を西洋から中国へ移動して歴史を相対化した点にある。その意義は一言で片づけられることでは無いが、言うまでもなく最も重要なことは西洋中心的なものの見方を疑った(現在の歴史プロの常識を広報した)ところにある。
欧米が裕福になったのはこの1世紀くらいの話でそれ以前の数百年世界で最も裕福だったのがアジアだったと友人が飲みながら言っていたり、中国の躍進について「元に戻っただけだろう」と親父が言っていた下地には世界を見る枠組みのシフトが不可避である。与那覇の指摘は既に多くの人の共通認識でもある。
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