人生最後の自由
先日特別養護老人ホームを小川次郎さんと寺内美紀子さんと見学した。特養とは精神上、肉体上「要介護」の人が入れる施設であるから当然入居者のほとんどは痴呆老人である。見学後「精神がままならなくなって生きているとはどんなもんだろうか?」と自問していたら寺内さんが祖母の話をしてくれた。彼女の祖母は九十過ぎて老人施設に入っている。精神は既にままならぬ状態。でも祖母は幸せなのだと言う。すべての人間社会のしがらみから解放されて自由なのだと。「まさか?」と思ったのだが、彼女は至って真面目にそう言う。
今日高橋源一郎の『ぼくらの文章教室』朝日新聞出版2013を読んでいたら小島信夫の『残光』の話が載っていた。どうもこの小説は、筋の通りづらい、読みづらい、解釈しにくい、文章が自由な文体として様々なところで称賛されているらしい。「でもそれって本当???」という疑問が多く投げかけられているので高橋によるこの小島称賛もどう解釈していいものやらと思うだが、、、、高橋曰く、小島のこの文章はもしかすると小島がボケて書いた、そのままなのかもしれないと言う。そしてボケて世の中の常識としての文章ルールを無視して書いたこの文章の「自由さ」が「ボケ」の境地を暗示しているというのである。それは誰も分からぬことだが「ボケ」とは人生の最後の自由なのかもしれないと言いたげである。
そんなことは誰も分からないしそれは自分の肉親がそうにでもなって、そして推測することなのだろうが、今まで考えてみたこともない考え方を聞いて、もしかするとそういうこともあるのかもしれない、、、、、、と思う今日この頃である。
You must be logged in to post a comment.