川久保玲⇔坂本一成
南谷恵理子さんの書いた『THE STUDY OF Come des GARCON』リトルモア2004の中で著者は川久保の服の作り方の本質として「身体の零度」をあげている。その意味するところは、創造の現場での「冷酷なまでの着る主体の不在」。言い換えればその服を着ることで「人が知的に見えるとかセクシーに見えると言った同一性獲得願望に」かかわらないということである。この主張を建築に置き換えれば「冷酷なまでの住む主体の不在」ということになる。そしてもしそうした態度を貫いた建築家をあえて挙げるとするならば篠原一男であろう。しかしそうしたアナロジーよりも、衣の世界における着る主体の存在自体に注目してみたい。というのも住の世界では住人と言うものをその住への要望者として照射することはあっても、建築と一体となった同一性を生み出す主体として見ることはまずないからである。しかしもしかすると、そうした住む主体と建築が一つのアマルガムのようなものへ生成する建築と言うものもあるのかもしれないと思う。いや少し前の建築はむしろそれが普通だったのではなかろうか?建築が流通する商品となった時からこうした契機が失われたということなのではなかろうか?
実は坂本一成さんが求めている環境としての建築と言うのは逆に言うとこうした住む主体の復権につながる行為なのではなかろうか?
川久保玲の創作哲学に坂本一成を読むヒントがあるというのも面白い。
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