伝えたいことがあるから創るのであり、ないなら創るのやめたほうがいい
お昼から翻訳勉強会。やっと二回目の読み合わせに入る。なんとか今年中に出版にこぎつけたい。
勉強会後にグルスキーを六本木で見ようと思っていたのだが大雨が降って来たので今日はあきらめた。帰宅後読みかけの内田樹『街場の文体論』ミシマ社2012を読む。内田の本はいつも最初の3分の1は面白いが残りは惰性で書かれているので目次見て飛ばし読む。この本も一番いいことは最初に書かれている。
第一章「言語にとって愛とは何か」が印象的。もちろんこれは吉本の『言語にとって美とは何か』のもじりだろう。まあそんなことはどうでもいい。著者曰く文章とは精一杯読む人に情理を尽くすこと。文章の創造性とは「何か突拍子もなく新しいこと」を言葉で表現することではない。それは「読み手に対する懇請の強度の関数」であるという。だからどんな文章でも絶対に相手のレベルに合わせて「こんな程度でいい」というような態度をとってはいけないという。
昨今久しぶりに教えられる文章である。このことを先ず僕は早稲田の演習で学生に伝えたプレゼンとはコンテンツ、パワポ、喋りと教えていたが、内田の文章を読んでどうもそういう教え方は違うなと思い直した。人に何かを伝えると言うことはそんなテクニカルな問題ではないと。次に理科大の建築の学生に同じことを話した。プレゼントは相手への懇請であると。懇請とは腰を低くしろと言うことでは全然ない。そうではなくて自分の最も言いたいことを相手に分かるように精一杯伝えると言う態度である。この対極を行くのが相手のレベルに合わせて相手が分かる程度のことを適当に伝えるという態度である。
そして最後に僕はこの言葉を自らの肝に命じることにした。すなわち建築の創造性とはクライアントにそして社会に対する懇請の強度の関数なのだということを。逆に言うとそれほど言いたいこと、伝えたいことがないなら作るのやめたほうがいいということでもある。
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