わたしの考えとは「引用の織物」でしかない
特に人文系では「論文は引用の集積のようなものである」とよく言われる。史料、資料をつなぎあわせて何かを明瞭にするのだからそう言われてもおかしくない。何かを定め明瞭にするためのつなぎ合わせ方がその論文のオリジナリティと言えばそうだがその内容自体は自分のものではない。そしてその他者の言葉も誰かまた他者の言葉である。
鷲田清一『<ひと>の現象学』筑摩書房2013の中にこんな文章がある。「わたしだけの言葉というものはそもそも存在しない。わたしの考えは人びとのあいだを流通することばによって編まれている・・・「わたしの」考えとはいえ、じつは「引用の織物」でしかない」。
にもかかわらずひとは私的なものがあると幻想する。それは自分の肉体とこころが自分のものであるということを人は信じて疑わないからであろう。そしてその疑いの余地のない自分のものが発するものは言葉であれ、絵画であれ、彫刻であれ、音楽であれ、建築であれ自分のものだと、これも信じて疑わないのであろう。
しかし鷲田が言うまでもなく、我々が発するものは言葉に限らず、おしなべて「引用の織物」なのだと僕は思う。磯崎新もだいぶ前にそう言っていたのだが、再確認である。だから結局表現という行為における独創性(というものがあるとするなら)とはこの引用の織物の中でいかに表現物が引用ではないと見せられるかどうかにかかっているだけなのである。あるものはそれを計算してやるしある者はそれを本能的にやるだけのことである。
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