エッセイのような楽な建築
早朝ブラジルのベロオリゾンテで会う予定の建築家Bruno・Santa・Cecilia氏から長文のメールが届く。心強い。ベロオリゾンテには1日しかいられないのでブルーノ氏とは昼食をご一緒することにした。
メールの返事をしてから嵐の中をジョッギンング。でも昨日の雨の方がよほど激しい。
朝食後鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学詩論』阪急コミュニケーションズ1999を読む。哲学はそもそも対話から始まったものなのに、ある時から自らを深く「反省」して物事を「基礎づける」学問となりいまその方法ではにっちもさっちっもいかない危機を迎えているというのが著者の認識。アドルノも同様の批判を行い、そこからの脱却の方法として「エッセイ」を挙げた。僕らはよく「君の論文はエッセイのようだ」と否定的に使う。それは論文と言うものが今でも「基礎づける」ことで成り立っていることの裏返しである。ということはアドルノに言わせれば論文と言う方法に乗っている大学での知の生成には限界があるということにある。僕らはもう少し論文というシステムに懐疑的であるべきだと思う。
さて「反省」「基礎づけ」という自己閉塞的な方法論の否定は「自己が語ること」から「他人を聞くこと」を必然的に招来するのである。この「聴く」という動作は「触れる」という動作と密接に関連し、「触れる」は「さわる」と異なり自―他、内―外、能動―受動の差異を超えた動作なのだと言う。ここまで来ると新たな哲学の位相である「聴く」力とは単に音を聴くということを超える。身体が何かを「享ける」力と言い換えても良い。
この力はとても示唆的である。恐らくこれから建築を作っていく上でもっとも重要な力の一つなのだと思う。我々が「享ける」べきものは様々ある。建築を使うひとであり、場所であり、材料であり、作るひとである。そうしたトータルな「享ける」をベースとして極度に基礎づけられていないエッセイのような建築が建築をもっと自由にするのかもしれない。つまり規則(アルゴリズム)に縛られ過ぎず、「享けた」ことに柔軟に対応する気まぐれが建築をもっと楽にしていくのだと思う。
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