レフェリー集団からプレイヤー集団へ
鷲田清一『パラレルな知性』小学館2013は専門的知性と市民的知性の乖離を再接続させる方途を模索する。その中で著者は専門的知性の変遷を語る。専門的知はその昔、社会から一歩離れた中立的な知として社会のレフェリーを務めていた。しかし現在では大学の研究者は研究資金を競争的に国や企業から獲得してこなくてはならない。資金は既にイデオロギー化されたものとなっておりそうしたマネーで行う研究は社会から一歩離れた中立的な物ではない。大学の専門家はもはやレフェリーではなくプレイヤーの一人なのだという。
確かに建築で考えてみてもその昔大学にいた建築家と言えば丹下健三、吉阪隆正、吉村順三、清家清などなど、だれもが社会に一言言える人たちであった。つまりはレフェリーだったのだ。ところが現在の大学にいる教員の多くはプレイヤーである。レフェリーたらんとする人もいるかもしれないが、そういう態度がしっくりくる人をあまり見かけない。そして著者が言うようにそれは大学全般の問題なのである。国家があるいは社会が大学をレフェリー集団ではなく、即社会の役に立つプレイヤー集団に育てようとしているのである。
突然失礼します。
私は、全員とは言いませんが、レフェリーたる大学教授はこれからも存在すべきだと思います。そのために、レフェリー大学教授という新たなビジネスモデルの開拓・創出が必要なのだと思います。