フィオナ・タンを見ながらカリエの写真を思い出す
●Carrie Mae Weems Not Manet`s Type 1997
先日もうすぐ2年間の休館に入る恵比寿の写真美術館でフィオナ・タン「まなざしの詩学」を見た。そこにフィオナ・タンをめぐる用語集なるものがあり今日ぺらぺらめくりながら「対位法」というページに目が止まった。
フィオナ・タンの展覧会で最も面白かったのはビデオが流れながらとうとうと流れるナレーションだった。これはビデオの説明になっているわけではなく、かと言って全然関係ない言葉の羅列というものでもなかった。対位法とはあの視覚と聴覚のつかず離れずの関係を、説明している。「フィオナ・タンの作品における映像とナレーションは、必ずしも説明的に相補し合うのではなく、しばしば換喩を通して間接的に繋がりながらそれぞれ独立した方向に発展する・・・・・」
この説明があの時の映像と語りを思い起こさせると同時に春にニューヨーク、グッゲンハイムで見たカリエ・マエ・ウィームスの写真の不思議な感性を彷彿とさせた。カリエの写真のいくつかには写真の一部あるいはその下に短い文や言葉が併置されている。そしてそれはキャプションではなく写真の説明ではないのである。ここでは双方視覚で受け取られているものの、目から入った後のルートが異なり別々に理解されている。その意味でフィオナ・タンの対位法に近い。
こういう別々の知覚ルートを用いた表現はアートの作為的な刺激とは言えず。我々は日常こういう複層する刺激を脳内で合成することで新たな表象を作り出している。その意味で彼らの表現はむしろ我々の自然な感性を呼び戻していると言えるのだと思う。
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