鈴木理策の目
Photo © Risaku Suzuki/ Christophe Guye Galerie.
鈴木理策の『sakura』という写真集がある。ピントがどこにあっているのか分からない満開の桜の花が揺らいで見える写真集である。それには鷲田清一の文章が載っている。曰く
「桜」という、だれもが何かを歌いたくなる、そんな〈物語〉への陳腐な誘惑をかわし〈意味〉による盛り上がりを禁じながら、どこに向かうかも分からない妖しい軌道を描く。これが妖しいのは、なんらかの意味に寄りかかってみることの軽さを一方でつきつけながら、その軽さがそれでも匿しもっている「見る」ことの野性を、たっぷり過ぎるほど厚く撮すからだ。
つまりここに写っているものは桜なのか花なのかピンク色なのか模様なのかただのぼやけなのかもはやそれが何かという意味性を問題としていない。目に見えてきたもの、いたもののみを掬い取っているということを鷲田は言いたいわけであり、僕も同感である。これはモノをゲシュタルトとしてその全体性を見ていたモダニズム的な視線とは明らかに異なる。ものを全体性でみるスタンスはそのものの意味性に拘っている。しかし人間の目は常にモノの全体性などを見ているのではなく、目に入ってくるものとはおおむね断片なのである。その自然な視覚の状態が現代の視線であり、鈴木の目なのだと思う。
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