SRとNM
21世紀の僕らが倫理的に暗黙に社会やそこに登場する物(建築でも都市でもなんでもいいのだが)に対して持っている(持つべき)感覚の一つは、それらを大事にしましょうという「優しさ」であり、もう一つはそういうものが自分たちの知らぬ不気味なパワーを持っている(原発はわかり易いが)かもしれないという「不安」である。この優しさと不安を哲学的に裏付けている昨今の風潮が、新唯物論(new materialism)と思弁的実在論(speculative realism)というものである(らしい)。そもそもカント以来の認識論的転回はモノ自体を否定して「人の理解したモノ」があると考えるようになったのだが、それがおかしいと言い出したのが上記哲学的状況で千葉雅也はこれを思弁的転回と呼んでいる。
つまり「人の解釈したモノ」があるのではなく「モノ」があるというカント以前の状態にひとまず戻って、さらに冷蔵庫も机も椅子も電話もそして人間も同じ水準にあり、人間をモノとは別格に置く認識論を破棄する考え方である。
さてこうした考え方は建築の創作、受容にどのような影響を及ぼすのだろうか?と考えてみるとストレートにこの考えを受容すればモノと対峙せよということになる。NM new materialismに即せば建築を大事にしなさいとうことになるし、SR speculative realismに即して考えればモノ自体の持っている計り知れない世界に向き合いそこから湧き出る未知の世界を感受せよということになる。この考え方は様々なものの価値が相対的に社会に浮遊しているというポストモダン的な思考を否定して、かなりの程度個人的な「思弁」に依存しそれをお互い極度に否定しあわないという関係性を肯定するもののようである。さらに言うならば、昨今のビッグデーターで様々な意思決定を行ったり価値判断を行う傾向をも否定していくものでもあるだろう。しかしこれは昨今の学生の卒計などにも見られる社会性」の呪縛からの解放とは、やや異なる位相にあるだろう。彼らの選択は解放へのエネルギーに基づくものであるが、上記思弁的転回はモノを再度見つめ直す強い観察眼と洞察力に裏付けられている。
とここまで書いてしかしではその観察学と洞察力とは何なのか???まだ先はよく見えない。
ベンジ【エコモニカ】
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