オリジナルであること
今はとあるメジャー新聞社の九州の編集局長をしている親友Mがその昔まだW大学の学生だった頃(だったと思うが)村上春樹の『風の歌を聴け』が群像新人賞を取った時にこの小説は抜群だと言って僕に読めと持ってきた。それ以来僕は村上春樹のファンとなった。当のMはその後村上春樹が有名になるともはやメジャーには興味が無いと言って気にも留めてい無いようであった。伸びそうな人間を見つけ出すのが彼の趣味であった(そういうのがジャーナリストなのかもしれ無いが)。
と言っても彼の作品をやみくもに全部読んできたわけでは無い。立ち読みして面白そうなものだけ読んできた。最近は実はあまり読んでい無い。でも好きである。世界観が僕とあっている。単純に文体も好きである。文壇というところと絶縁しているのもいい。
というわけで最近出たこの本を読んでいて面白い事だらけなのだが、一つ紹介したい話がある。
僕は自分が感じた面白い話を勝手に(相手が聞いていようがいまいが)一方的によく配偶者や助手の佐河君に話す。話すとすっきりする。誰かに話さないと忘れてしまいそうな気がして心配なので話す。話した事はだいたい自分の記憶に残る。これが結構重要である。そんな話の一つである。
これは村上春樹『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング2015の第四回オリジナリティーについての章に書かれていたことである。村上によれば「特定の表現者を『オリジナルである』と呼ぶためには」3つの条件がいるという。
1) 独自のスタイルがあること
2) そのスタイルを自らの力でヴァージョンアップできる事。同じ場所にとどまらない自己革新力を内在していること。
3) そのスタイルは時間の経過とともに人々のサイキに吸収され価値判断基準の一部として取り込まれること。
この話はとてもとても納得させられたのである。実は村上がこんなことを考えているというのはとても意外でそんなことを考えながら表現していたとは思えなかった。自らを頭の回転が遅い人間で早い人間は評論家向きだといいつつ、ここに挙げた三つの視点はまさに評論さながらであるから。
この3つのうち1)は誰でも思うオリジナリティであろう。そして3)はとある著名な美学者が述べていたことに近い。曰く真の芸術家はハビトゥス(習慣)を変革しうると同時にその変革されたハビトゥスは規範性を帯びる。なので僕にとって重要だったのはこの2)なのである。なんとなく思っていた言葉「ヴァージョンアップ」を村上が言ってくれて頭がすきっとした。そうなのである。ゲーリーのヴィトンがなぜいいかということをこの言葉が解きほぐしてくれたのである。ヴァージョンアップする自己革新性というのは本当にすごいエネルギーと努力がいることなのである。いつもおぼろげに感じている創作のエッセンスなのだと思う。
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