10代の心と体
昨日は人を(作品)を評価して賞を与える側に居た。著者が数年かけた思いが結実した著書を読み込んでそこに見える価値と思われるものを抉り出して評価する。大変なことである。
今日は逆にコンペの提出日。数年はかけていないので昨日の著者ほどの血と汗と涙がこもっているとは言えないけれど、ここ1ヶ月燃焼させたエネルギーを評価してもらう作品の提出日である。去年の12月に事務所を引越し宮晶子さんと事務所をシェアして早速一緒にコンペをやろうということになった。もちろんどこの誰かも知らない人とコンペなどできるわけもないが、すでに理科大で非常勤をしてもらったこともあるし、台湾に建築を一緒に見に行ったこともあるし、その建築観を共有する部分があることは分かっている。そしてそういう他者と仕事をすることは僕の常々思っている仕事の仕方なのである。そして佐川君が入りこの3人の力に加え研究室の中川、宮前、大村、増田、長谷川、平野素晴らしい活躍。出してしまったものには常に後悔が付きまとい、そしてそうではなかったかもしれない未来が妄想となって脳裏をよぎる。毎度のことである。それは建築だけではなく著作でもそうである。八束はじめがそういうことをある本のあとがきに書いていた。八束さんほどではないけれど私にも同様な感覚は生まれてくる。
朝最終のプレボに宮さんと私で赤を入れて佐河君に後を託し、宮さんも私も大学へ向かう。入試の監督である。国語の問題では好井裕明『違和感から始まる社会学 日常性のフィールドワークへの招待』の一部が使われており、日常性と向き合うことにおいて他者への眼差しの重要性が書かれていた。他者と向き合うことが日常を感じ取ることなのだと改めて思いコンペの意味を再確認したわけである。
午後の英語の試験を終えて生徒たちは今日の入試が終わった。朝はいささか緊張気味だった表情も緩み、弛緩、脱力、あるものは満足げ、あるものはちょっぴり後悔も混じった表情を見せていた。生徒たちは一年あるいは数年の努力をここに結実させてその評価を大学に委ねるわけである。良くも悪しくもこれが子供たちの成長の一過程である。しかしそれを評価するぼくたちもついさっきコンペを出してその評価を先輩後輩建築家に委ねるのである。その構図は全く同じである。僕は今事務所に戻りひとり女性ボーカルの音楽を聞きながら少々脱力、弛緩しながら掃除して、コンペの垢を物理的にも精神的にも拭き取りそしてこの文章を書いている。
ああ50過ぎても10代の生徒たちとその人生を通過していくその仕方は変わらない。10代の心と体(?)がある限りこのプロセスは続く。
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