人生訓とは、エスキスチェックとは
人生訓みたいな話を聞いたとき、それを受け入れるかどうかは、その話の内容の真実さによるのではなく、その話をしている人の生き様に納得がいくかどうかにかかっている。というのもその人はその言葉によって成長してきたのだからその言葉を受け入れればその人のようになっていくからである。
人生訓とまでいかなくても建築のエスキスチェックの言葉の半分はそれに近いようなところがある(半分は技術的に真偽がはっきりしている問題である)。だからそのエスキスチェックを受け入れるかどうかはそのエスキスチェックの真実さによるのではなくそのエスキスチェックを語る人が作ってきたものに納得がいくかどうかにかかっている。
その意味では現在僕らがやっているように教員が自分たちの作ってきたものを示し学生が教員を選べるシステムは妥当だと僕は考える。もちろんどこでもそんなことができるわけではない。私立大学で学生も先生もたくさんいるからそういうことが可能で、国立大学ではそれは不可能である。僕が非常勤で行っていた国立大の3年生は否応なく全員が僕のエスキスを受けねばならなく彼らに選択権はなかった。
話を人生訓に戻すと、大学の教員はあるところでは専門領域を離れて人生訓的な話をする機会もあるのだが上記のとおり、そこで重要なのは自らが依拠した人生訓を晒すことではなく、彼らが依拠すべき人生訓を想像することなのである。そんなことはほとんど不可能に近いのだが、唯一やれて、やるべきことは自分が依拠した人生訓とそれによって自分が培った価値観を相対化することである。そしてその上でそれを前提にした上で、自らを晒すなり、殺すなり、そこからは自由である。
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