地域アート
藤田直哉の「前衛のゾンビたち−地域アートの諸問題」2014年『すばる』初出(『地域アート−美学 制度 日本』堀内出版2016所収)をやっと読んだ。加えてその周辺の議論を読んでみて藤田氏の話題の本論考の意図に共感するに至る。そしてこれはアートのみならず建築にも相当部分当てはまる議論だろうと思わざるを得ないと感じた。
本論考の趣旨はこうである。現代地域アートという名で妻有、瀬戸内海などで行われている地方芸術祭が国の地方起こしの政策や、芸術系大学における指導にも導かれながら行われている。しかしそれらを語る理論は68年のそれであり、あたかも前衛たちがゾンビのごとく蘇り、しかし前衛が持っていた未知の世界の開示や拡張の感覚がここにはなく、ただただ国策の一環であるかのような「地域活性化」に奉仕してしまって閉じてしまっていることを批判的に指摘するものである。
藤田は会田誠との対談においては大学の教育の問題もあげている。あたかも地方アートの姿が正常で、資本主義社会で売り買いされる高額アートは商売でありアートではないという指導がまたアートを閉塞化させているというものである。
建築も似た状況である。社会性がなければ建築ではないというオブセッションに取り憑かれた学生は藤田のいう未知の世界の開示や拡張の感覚を完全に忘れてしまったし、もしかすると最初からその存在を知らされていない。出口を考えてそれにあった教育をと思うのは当然だが、建築の本当の喜びと、建築に求められているものは実は藤田の指摘する「未知」にもあるのである。僕らは堂々とその喜びを学生に伝えてやるべきなのである。
あきらかに僕らが学生時代、磯崎や篠原の建築を見に行って固唾を飲んだあの喜びと興奮を今の学生には知らせることができていない。これは教員の落ち度である。
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