日常は出発点であっても、回帰点ではない
菅付雅信『新しい写真、それは世界を新しく見つめなそう方法だ』玄光社2016は月刊『コマーシャルフォト』の連載「流行写真通信」の5年分なので約60の写真家や写真事情が書かれている。それを見ていると日本の若い写真家は日常的な写真を撮る人が多いことに気づく。そして実際2014年の木村伊兵衛賞の審査時に「アサヒカメラ」前編集長の勝又ひろしがこう言う「最近の賞の候補者は、よくも悪しくも自分の半径5メートル以内で勝負している写真が多い」日常性に拘泥するのは、アートも、建築もどこでも起こっている。そしてこれは日本的現象かというとそうでもないようである。
でもずっと日常性の中にいるのは創造に結びつかないと思っている。坂本先生と対談した時におっしゃっていた。「習慣を完全に外すことはわれわれがわれわれであることを否定することで、それはしたくないという思いがあります。習慣はわれわれがわれわれであることを明らかにするけれど、同時に習慣には嫌な部分もあるので、その部分への『違反』をどうにかしてやりたい」日常をどこかですり抜けて別の世界に行かないといけない。
日常は出発点であっても、回帰点ではない。
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