美的なものとは
北田晃大、神野真吾、竹田恵子編著『社会の芸術/芸術という社会—社会とアートの関係、その再創造に向けて』フィルムアート社2016の中で岸政彦がアートとはそもそも社会から生まれたのだと言っていた。岸はテリーイーグルトンをひき、現在のアートの表現形態は19世紀ロマン主義にさかのぼり、それは産業資本主義市経済における功利主義があらゆる教養を否定し、その否定からの治外法権な場として想像力や創造力という概念が生まれたと説明する。つまり「純粋に美的なもの」とは社会と関係を結ばないもの「結んではいけないもの」それが美的であることの証なのだという。アートは我々を社会の外に連れて行ってくれるのはアートの力なのではなく、それはそのようなものとして社会的に作られたのだと言うのである。
ということは社会的アートというのは明らかにもともとのアートの役割を放棄したものであり、それはやはりアートと呼ぶべきではない。それは社会活動と呼ぶのだろうと思う。僕は建築についてもそういうことを感ずることがある。建築というものはアートと異なり治外法権の場として作られた創造力や想像力のみによって作られるものではもちろんなく、それこそ社会的な要請によって生まれるものであるから、社会と密接につながっているものなのである。しかし創造力や想像力も建築を作るとき、見るときの醍醐味であり社会的に要請されていることでもあるのである。となれば建築というものも社会と関係を結んではいけないものとして定義することも部分的には可能なのではないかと思うのである。そしてそうした反社会的な建物にも、建築の良さがあることを大いに認めていいのだろうと思うのである。
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