中庸のラディカリズム
京橋のリクシルに行き刷り上がった『建築の条件』を前にして契約書にサインして献本用の本にお名前を書いた。リクシルの隈千夏さんと飯尾次郎さんにお礼をした。お二人からは久しぶりの300ページ超えの単著になったと喜んでいただけた。本にする企画があがったころは200ページくらいの話だったのだが、徐々に書くべきことが増え、章まで増えこの厚みになった。存在感もあり、持ち運びもしやすそうな大きさにまとまりこれで2300円なら安いではないかという、自画自賛とあいなった。まだ配本用の本は届いてないらしく、理科大の生協に並ぶのも来週末。アマゾンで買えるのもその頃のようである。
飯尾さんに「中庸」というのがこの本の肝ですねと言われた。それは國分功一郎の『中動態の世界』で主張される受動態と能動態の中間の態である中動態に通ずるし、東浩紀の言う主体と他者の間の状態にも類似し、坂本先生の言うハビトゥスの半否定、僕の言う「振り切らない」にも関連する。なぜ皆がこのあたりを注目しているのかというと左に振り切ったモダニズムにも右に振り切ったポストモダニズムにも皆が満足していないからである。望むものはこうなればその間のどこかにしかない。しかし間というのは決して間であるからその表現や主張が脆弱になっているというわけではない。赤と黄色を混ぜたオレンジが中間の色だからという理由でそれだけ無個性で表現の弱い色であるとは限らない。中庸は中庸という言葉の響きからは程遠い表現の可能性を保持しているのである。この本でこの中庸の可能性に到達していただければ著者としては幸甚である。
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